2016年3月31日木曜日
2013年7月19日金曜日
地域リレー講座「本牧通り物語」 ふるさと本牧のDVDを観る
さる7月14日(日)、中本牧コミュニティハウスにおいて、地域リレー講座「本牧通り物語」パート14が開催された。
1995年頃にケーブルテレビで放映された「ふるさと本牧」という番組を観る。
・レーモンドの本牧の家
・土が語る昔の本牧
・湧き水をたずねて
・本牧の鳥
・野村洋三伝
・本牧の盆行事
・千代崎川
・三溪園の春
参加者は近隣にお住まいの方々から他区や市外の居住者まで、15人ほど。
レーモンドの作品。右は解体された旧本牧スタンダード石油社宅。
DVDのあとは本牧2丁目南部町内会長の石田さん宅の盆飾りを見せていただく。
1995年頃にケーブルテレビで放映された「ふるさと本牧」という番組を観る。
・レーモンドの本牧の家
・土が語る昔の本牧
・湧き水をたずねて
・本牧の鳥
・野村洋三伝
・本牧の盆行事
・千代崎川
・三溪園の春
参加者は近隣にお住まいの方々から他区や市外の居住者まで、15人ほど。
レーモンドの作品。右は解体された旧本牧スタンダード石油社宅。
左は保存活用されている横浜・パークシティ本牧クラブハウス(旧山手250番館)。
本牧通り物語 DVDを観て
男性(本郷町) 戦時中、アメリカでは日本を焼夷弾で焼き尽くす研究、実験を行っていた。その時、いちばん日本の家屋に詳しかったレーモンドやモーガンがその実験に加担していたという。皮肉なもんだと思う。
男性(旭区) レーモンドが設計した建築物に銘板か碑を建ててほしい。伊勢佐木町の不二家なんか、接収の歴史もあるし、いいと思うのだが。
男性(本牧町) 建物を建替えるときに反対運動なんか起きたりして面倒なことになるから、そっとしておいてほしいという面もある。
男性(千代崎町) 千代崎川の源流が分かってよかった。
男性(本牧町) 猿田川、簑沢川、江吾田川と3つの支流がある。その中でいちばん長いのが猿田川で、これが本流だ。
女性(本牧町) 地域の方々のお盆の飾り方を知りたくて来た。浜方の盆山をはじめて見た。来てよかった。
女性(本牧原) 2006年に本牧に引っ越してきた。そのときレーモンドの建築を探したけど、見つけることができなかったので、今日は映像を見に来た。よかった。
男性(千葉) 本牧はいいところだ。
男性(磯子区) 30年くらい転勤族だった。よそから帰ってくると本牧はいいところだと思う。中図書館に行った時に、今日の行事を知った。よかった。レーモンドはユタ州に日本の住宅街を再現し、下町に焼夷弾を落としたらどうなるかを研究していた。戦後、彼は「戦争を早く終わらせたかった」と述べている。芸術肌の建築家として、苦悩したのではないか。
男性(本牧町) 懐かしい映像を見に来た。本牧の砂浜で遊んだ記憶もある。その映像を見たかったのだが、海の映像がなかったのが残念。千代崎川でも遊んだ。お盆の飾りを見ることができて、良かった。
女性3人(本牧町) 結婚して本牧に来た。昔のことが分かってよかった。
posted by よんなん
2013年5月24日金曜日
本牧通り物語 パート14 『ふるさと本牧』を観る
2013年5月24日、中本牧コミュニティハウスにおいて地域リレー講座「本牧通り物語 パート14」が 開催されました。
今回もテーマは「横浜ケーブルテレビ(CCY)製作の番組 ふるさと本牧を観る」ことでした。
会場には中本牧コミュニティハウスの好意により、冷たいお茶と温かいコーヒーが用意されていました。
コミュニティハウス・スタッフの相馬さん、地域交流部会長の村田さんのあいさつのあと、1995年から97年にかけて製作されたCCYの番組「ふるさと本牧」を1時間ほど視聴。
ビデオを観たあとは、参加者同士で語り合いです。
間門小学校の卒業生のお話
引き潮のときは靴を脱いで海を歩いて帰ったものです。本牧元町まで歩きました。
汐が満ちてくると膝まで水が来ましたけど、それでも歩いていました。
なんで、埋め立ててしまったのでしょうかねぇ・・・
本牧十二天の本牧神社裏に住んでいた人のお話
山頂公園に下村観山の記念碑があります。最初は絵筆のデザインにという話もありましたが、結局、種をイメージした形になりました。
芸術家を育てたからなんですね。
千歳寺に生島孫太郎のお墓があるのは知りませんでした。
ほかにも懐かしい話しや体験談が飛び出し、11時半に終了。
部屋を片付けて解散となりました。
次回は7月14日の予定です。
今回もテーマは「横浜ケーブルテレビ(CCY)製作の番組 ふるさと本牧を観る」ことでした。
会場には中本牧コミュニティハウスの好意により、冷たいお茶と温かいコーヒーが用意されていました。
コミュニティハウス・スタッフの相馬さん、地域交流部会長の村田さんのあいさつのあと、1995年から97年にかけて製作されたCCYの番組「ふるさと本牧」を1時間ほど視聴。
![]() | ||
番組タイトル |
![]() |
空襲により焼け野原となった本牧 |
![]() |
麦田のトンネル |
![]() |
接収された本牧 |
![]() |
下村観山 |
![]() |
山本周五郎の住宅 |
![]() |
間門園のあった小山 |
ビデオを観たあとは、参加者同士で語り合いです。
間門小学校の卒業生のお話
引き潮のときは靴を脱いで海を歩いて帰ったものです。本牧元町まで歩きました。
汐が満ちてくると膝まで水が来ましたけど、それでも歩いていました。
なんで、埋め立ててしまったのでしょうかねぇ・・・
本牧十二天の本牧神社裏に住んでいた人のお話
山頂公園に下村観山の記念碑があります。最初は絵筆のデザインにという話もありましたが、結局、種をイメージした形になりました。
芸術家を育てたからなんですね。
千歳寺に生島孫太郎のお墓があるのは知りませんでした。
ほかにも懐かしい話しや体験談が飛び出し、11時半に終了。
部屋を片付けて解散となりました。
次回は7月14日の予定です。
2013年5月20日月曜日
地域リレー講座「本牧通り物語」 パート14
前回に引き続き、1990年代後半に地域ケーブルテレビ(CCY)で放映された番組を観ながら、みんなで語り合います。
今回は「フェンスの向こう側」、「三溪園」などが登場します。
日時 5月24日(金) 午前10時~11時30分
会場 中本牧コミュニティハウス
参加費 無料
申込先 中本牧コミュニティハウス 中区本牧町2-351
電話 623-8483
2013年3月7日木曜日
本牧通り物語 パート13
.jpg)
2月28日(木)、地域リレー講座「本牧通り物語 Part.13」~ふるさと本牧(CCY製作)を観る~が開催された。 この日放映したのは、地域ケーブルテレビ局(CCY)で放映された番組(1995~1997)から1時間分にまとめたビデオ。 生まれたときから何十年も住んでいる方や、1年前に引越してきたばかりという方など、10人ほどが番組を観たあと話し合いを行った。
.jpg)
.jpg)
.jpg)
.jpg)
.jpg)
.jpg)
.jpg)
.jpg)
.jpg)
.jpg)
【ビデオの主な内容】
・プロローグ
かつて山本周五郎、谷崎順一郎、原三溪などが住んだ本牧で、今、新しい街づくりが始まっている。
明治44年に麦田のトンネルが開通し、電車が来るようになってから転入者が増えてきた。
さらに、大正12年の関東大震災で被災した都心部の人たちが大勢移り住んできた。
・吾妻神社
日本武尊(ヤマトタケル)が東国征伐に出た際、相模(現在の神奈川県の一部)から上総(現在の千葉県の一部)に渡ろうとしたとき、海上で嵐に襲われ、弟橘姫(オ トタチバナヒメ)が海に身を投じることで嵐を鎮め、数日後に千葉の海岸に御袖が流れ付いたので、この御袖を納める社を建立したのが創祀と伝えられている。 吾妻という名の由来は我妻からきている。
戦災で失われた神体像は、髪を束ね、右手に剣を持ち、左手を帯に挟んだ木立像で、昭和初期には既に煤で真っ黒になっていたと云われている。伝承によれば、元々は今の千葉県は木更津で崇められており、たいそう子供好きの神様であったといい、ある寒い日、子供たちが焚き火を囲んでいる姿を見て、子供の姿に化身し仲間に加わろうとしたが、見馴れぬ者と怪しまれ火中に突き転がされてしまう。あまりの熱さに「お吾妻さま」は海に飛び込み、そのまま対岸の本牧の浜に流れ着き、漁師の網にかかった。そこで漁師は、その焦げた腹部に布を巻いて今の本牧の地に祭ったと云われている。
・亀の子石
小さな窪みがたくさんある石、これが亀の子石である。
大昔のこと、死んだ大きな海亀が流れ着いた。その甲羅に付いていた多数のフジツボなどをタワシでこすってきれいにしてやった。そのころ百日咳が流行していたのだが、そのお蔭か病が治った。
いつの頃からかこの亀の子石はのどを守る神、特に百日咳に効験ありとして信仰され、百日咳などを患うと、この神様からたわしを借りてのどをこすり、また小児の食した茶碗をこのたわしで洗うと不思議に咳が治るといわれている。三七の結願で治ると亀の子たわしを倍にして返礼する習わしがある。
・北向き地蔵(千蔵寺内)
千蔵寺の過去帳に、黒船来航時沿岸警備の為に来浜した因州鳥取藩の農民六名の名前が記されている。
四の日には、霊験あらたかな北向き地蔵は赤いたすきと石でいっぱいになる。
・鳥取藩
嘉永6年、ペリーが来航した。そのとき本牧の警備に入ったのは熊本藩であった。その後、鳥取藩に交代し、多聞院がその本陣となった。
八王子山、十二天などに砲台が造られた。
・市電
北方のビール工場から出荷された製品を輸送していたが、関東大震災で貨車輸送はやめてしまった。 ・フェンスの向こう側 本牧の接収地にあった米軍住宅。アメリカ風の大きな家が緑の芝生の中に点在していた。
接収直後の頃には、略奪、暴行などがしばしばあった。
【参加者の声から】
30年前に磯子区から本牧に引っ越してきた。それ以前のことを知りたくて参加した。
1年半前に杉並区から本牧原に引っ越してきた。町のことを知りたくて参加した。本牧は日常生活を送るにはいいところだと思うが、その反面、他所へ出かけるには不便だ。シャッターの閉まった商店が多い。映画館がなくなったのも残念。山頂公園の下に大きな駐車場があるが、満車になっているのを見たことがない。
最近、十二天の山に裏側(下水処理場側)から入ってみた。テニスや野球のボールがたくさん転がっていた。米軍の水タンクの基礎や配管も残っていた。
フェンスの向こう側に対する思いは世代によって随分違うと思う。
アメリカ人の中高生が12×3なんて易しい計算をやっていた。
米兵がジープでやって来て、飴やチョコをばらまき、それを拾う子どもたちの写真を撮って本国に送っていた。自分たちが日本を支配していることをPRしていたんだろう。
昭和20年の9月から暮れまで、白人たちは安全な所に駐留していたが、黒人たちは危険な所にいた。日本人の逆襲を心配していたのだ。人種差別はひどいものがあった。
当時の市電は小港を出ると三溪園前まで停留所がなかった。日本人が住んでいなかったからだ。
千葉と本牧のつながりを感じた。千葉からのカツギヤが来ていた。東京へ売りに行く人たちは電車を利用していたが、本牧に来る人たちは富津航路を利用していた。
ブラフ積みの石は房総石だ。本牧ではムカデのことをハガチというが、千葉でも同じ言葉を使っている。
市電の朝一番の電車をお召し電車といった。一般のお客さんではなく、沿線に住んでいる市電の職員を乗せて回っていた。
2012年7月18日水曜日
地域リレー講座:本牧通り物語Part10
中本牧コミュニティハウス自主事業
地域リレー講座:本牧通り物語Part10
「~ 釣 り・ 地 震 ・津 波 ~」私達の身近にある本牧海と釣り、より親しむため話。 又、地震と津波の知識についても合わせ話しただきます。
親子、ども大歓迎です。
日時 8月2日(木曜日)
午前10時~11時30分
会場 :中本牧コミュニティハウス
講師 : 野田 栄( OZ 店主、週刊つりニュース A.P.C)共催:第4南元気づくり協議会 地域交流部会
本牧OZ
定 員 20 名ほど
参加費 無料
申込み・問い合わせ
中本牧コミュニティハウス
横浜市中区本牧町2-351
電話623-8483
7月11日(水)より電話または来館にて
登録:
投稿 (Atom)